1300年かけて形成された日本の田園景観

木製農具イメージ写真

奈良時代初期の722年、続日本紀に「膏腴の地良田一百万町を開墾せん」と言う文言が出てきます。

「膏腴」は土地が肥えていること、「良田」は文字通り良い田んぼの事です。
つまり、肥えた良い田んぼを百万町歩作ろうと言う呼びかけをしたと言う記事です。

「百万町歩開墾計画」と呼ばれています。

この「百万町歩開墾計画」が本当にあったのか、単なるスローガンみたいなものだったのではと言う疑問も
呈されています。

他の古文書の記録などを見る限り、どうも当時の日本全国合わせても100万町歩も農地があったとは思えない、
ある研究者の研究によると74万町歩ぐらいとの事です。

続日本紀の前編にあたる日本書紀の壬申の乱記述について、
遠山美都男さんは、二万の軍勢とあるのは、せいぜい200人ぐらいの規模が集結していたとしています。

遠山説では、飛鳥京攻防戦は、十数人で三方から迫る近江朝廷軍を迎撃したとの事なので、
映画「七人の侍」みたいな規模の戦闘だった事になります。

また、日本書紀はヤマトタケルノミコトについて、身長一丈と記していますが、1丈=約3メートルです。
いくらなんでもこんな背丈の高い人はいないと思います。

こうしてみると、日本書紀や続日本紀に出てくる数字表現は、そのまま鵜呑みにできないようなもので、
大勢の兵が集まっていたとか、すごく身長が高かったとかと言う事を大げさに言うために数字を並べていると
みた良いのかもしれません。

ですから、「肥えた良い田んぼを百万町歩作るんだ」と言うお話も
「百万町歩」は鵜呑みにできず、

一生懸命、良い田んぼをたくさん作ろう程度の掛け声だったと見た方がよいのでしょう。

さて、実態の方ですが、どうやら70万町歩程度と言うのが、専門家の意見のようです。
ところで1町歩が1ヘクタールになったのは、豊臣秀吉の太閤検地の時で、
上代の1町歩がどのくらいの面積だったのかは、諸説あるようです。

それらを踏まえて考えてみると、飛鳥時代から奈良時代初期の全国の農地面積は、
60-80万ヘクタール程度だったと言うのが当たらずと言えども遠からずと言うところでしょう。

前回の記事

1960年代、日本史上最大に達した農地面積
で述べたように、

1963年、日本の農地面積は600万ヘクタールを越えました。

つまり、1300年間に7-10倍程度に増えたと言うことです。

ところで、日本書紀にはこんな歌が出てきます。

「つぎねふ山背女、木鍬持ち、打ちし大根、さわさわに汝が言へせこそ 打渡す やがはえなす 来入り参来れ」

つぎねふは、山背(現京都府)の枕詞、
木鍬は、文字通り、木製の鍬の事、

打ちしは掘り起こす、
大根は、あの野菜の大根です。

つまり、この歌には「京都の女性が木の鍬で掘り起こした大根」と言う意味の表現が出てくるのですが、
「二万の軍勢」や「身長一丈」、「良田百万町歩」と違い、リアリティを感じさせます。

重機はもちろんの事、ステンレス鋼製の農機具もなかった時代、
先人達は博物館に並んでいるような木製の農具で地を掘り起こしながら、
60-80万ヘクタール程度しかなかった農地を広げ、

日本の田園景観を作ってきたわけです。

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